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【そもそも人間学とは何か】 「真学と俗学」

知古嶋芳琉です。

 先日、

ほんの少し

大学の先生とお話しをしてみたのですが、

これが

なかなか

お話しが

噛み合わない。

何をやるにしても、

文部科学省の許可を取らないとできないという。

なんとも窮屈なことです。

それに比べると、

私が師事した先生たちは、

役所なんか、

まったく眼中にありませんでした。

安岡正篤先生がその代表で、

先生は

たしか

大学を卒業して

すぐに文部省に入ったものの、

「あんなところには居られない」

とばかりに、

すぐに辞めてしまいました。

せっかく東大を卒業したのに、

その後は

一度も世に出ることはなさいませんでした。

ただ、

終戦直前の内閣の顧問は引き受けられたのですが、

これが仇になって、

GHQから

公職追放のターゲットにされてしまった

という不運がありました。

先生は

「日本農士学校」とか

「金鶏学院」などの、

いわば私塾を開かれましたが、

これは

江戸時代にあった私塾と同じようなもので、

文部省が制定するような学校ではありません。

ひるがえって、

ここ数年の間に

私が受講しまくったセミナーもまた

この私塾と同じようなもので、

青木安輝さんの『ソリューション・フォーカス』も、

クリス岡崎さんの『億万長者専門学校』も、

大阪の衛藤さんの『日本メンタルヘルス協会』も、

そのほかにも

いろいろあるのですが、

どれを取っても

非常にユニークな存在です。

大学の講義なんぞとは、

似ても似つかない代物です。

しかし、

これらのどれを取っても

極めて実践的で、

教えていただいたことは、

即座に活用できました。

ここが、

普通の大学の授業とは大いに違うところで、

今さら

大学に行って学ぼうという気が起こらない理由です。

それが

たとえ

実践的であるという

MBAの資格を与えるという

ビジネス・スクールですら、

ちょっと覗いてみたら、

やっぱり、

旧態依然としたことしかやっていませんでした。

冒頭にご紹介した、

私とのお話しが

少しも噛み合わなかった大学教授は、

実は

九州の片田舎の大学に設置された

「ビジネス・スクール」の科長で、

しかも、

ドッラッカーを語らずして

企業とか企業経営者を語るなかれ、

とでも言いたいような、

敬虔な

ドラッカー信者」でした。

ところが、

皮肉にも、

そのドラッカーが、

現代の「ビジネス・スクール」は、

現代社会の要請に答えられる人材を

輩出していないとして、

手厳しく批判していることを、

あの

カリフォルニア臨床心理学大学院の学長であった

ジョン・オニールが、

その著書

『成功して不幸になる人々』の中で

証言しております。

最近のハーバード大学とか

スタンフォード大学の先生が

書いた本を読んでみますと、

あんな先生たちに鍛えられたら、

そりゃあもう、

何でもやれそうな気分になってしまう学生が

育つに違いありません。

それに引き換え、

私が出会った

大学の先生たちは、

アメリカの先生たちが

30年前にやっていたことを

いまだにやっている、

とのそしりを免れません。

今更、

ドラッカー

神様扱いする学者に学ぼう

なんていう時代錯誤も甚だしい輩は

いないでしょうが、

文部科学省のお役人からお墨付きをもらうためには、

致し方ないのでしょう。

ドラッカー無しには

経営学を語れないという人も、

確かに

居るには居ますが、

私の場合、

親父の書斎にあった

『現代の経営』を

高校生の頃に

パラパラと眺めた程度で、

大学に進学して

経営学を学ぶ過程においては、

私の周囲には、

誰一人として

ドラッカーを語るどころか、

見向く人もおりませんでした。

そして、

大学を卒業してからも

企業とか企業経営とか経営者の研究には

事のほか熱心に勉強してきたつもりですが、

日本では

数百万部も売れた

ドラッカーの本は、

不思議なことに、

なぜか、

一冊も読んでおりませんし、

今後とも

今更

読もうという気にもならないのです。

これは、

あくまでも

私の

独断と偏見ですから、

普通の人は

ご参考には

なさらないでください。

物事には相性と言うものもございます。

これが合うと合わないとでは、

水と油が溶け合うことがないように、

あるいは、

天地ほどの違いも出て参ります。

いわゆる

肌が合うとか合わない

というような感じでありますから、

これは理屈の世界のことではなくて、

感性の違いとでも言えばよろしいのでしょうか、

まあ、そういうことです。

ここでご紹介する安岡先生の講義録は、

PHP文庫の「安岡正篤:現代活学講話選集」の一冊、

『酔古堂剣掃(すいこうどうけんすい)』 です。

何度読み返しても、

時代を越えて、

今の時代を、姑息・頽廃・衰亡から救うものであり、

粛然として

姿勢を正さざるを得ません。

−−−ここからが引用です−−−

−−−原文−−−

田園真楽あり。

瀟洒(しょうしゃ:すっきりとあか抜けしているさま。

俗っぽくなくしゃれているさま)ならずんば

終(つい)に忙人(せわしくて落ち着けない人。

いそがしい人)となる。

誦読(しょうどく:書物などを

声を出して読み上げること)

真趣(おもむき:そのものが感じさせる風情。

しみじみとした味わい)あり。

玩味(がんみ:言葉や文章などの表している意味や

内容などを、よく理解して味わうこと)せずんば

終に鄙夫(ひふ:いやしい男。下品な男)となる。

山水真賞あり。

領会(りょうえ:事情を思いやって納得すること。

理解すること。のみこむこと。了承。領解)せずんば

終に漫遊(まんゆう:気の向くままに

各地を回って旅すること)となる。

吟詠(ぎんえい:詩歌を節をつけてうたうこと。

詩歌を作ること)真得あり。

解脱(げだつ:縛るものを離れて自由になる意。

悩みや迷いなど煩悩(ぼんのう)の束縛から

解き放たれて、自由の境地に到達すること。悟ること)

せずんば

終に套語(とうご:言いふるされた言葉。きまり文句。

常套語)となる。

−−−原文の解説−−−

「套」という字は大と長からなっている。

大長を重ねた文字です。

ところがそれがいろいろに変化しまして、

我々の持ち物、我々の衣類、

そういうもののひと重ねとなり、

さらに転じて、

持ち古し、

陳腐というような意味になるのだけれど、

本来の意味は、

いろいろ役に立つので常用すること。

常用はつまり平凡になる、陳腐になる。

そこで、

通常というような意味に落ち着いてくるのだが、

そういう通俗的な意味になります。

田園に本当の楽しみがある。

瀟洒というのは「洗う」「洗い出す」で、

アカを落とす、洗い出すという意味。

つまり、田園に真楽があるが、

洗い抜かんと、

アカを落とさんと、

言い換えれば

解脱せんと、

終に忙人となる。

忙しい人間になる。

それ草取りだ、

それ水を入れるんだと、

いたずらに忙しくなってしまう。

「誦読真趣あり」、

書を読むということは、真の趣がある。

しかし、

玩味しないと

結局は

鄙夫(ひふ:いやしい男。下品な男)、

卑しい人間になる。

学者には案外俗物が多いものです。

それは本当に学問をしぬかん、

いたずらに学問を弄ぶものだから

鄙夫(ひふ:いやしい男)になる。

同じように、「山水真賞あり」は、

山水を漫然と賞美するのでは漫遊にすぎない。

このごろ有象無象が行くような旅行なんていうのは、

あれは漫遊というもので、

真賞ではありません。

「吟詠真得あり」、

詩を作ったり、和歌を作ったり、

それを吟じ、読んで楽しむ。

これは人間として真実を得るところ、

真得がある。

しかし、

これとて解脱しないと

つまらない平凡な言葉の遊戯になってしまう。

「套語」になってしまう。

せっかくのことも

その真を得なければ、

俗になってしまうのである。

ピンからキリまであるので、

(ピン:第一番。最上等のもの)

(キリ:多く「きりがない」「きりのない」などの形で

用いる。かぎり。はて。際限。芸能で、最後の部分)

ただ山水を愛でるといっても、

読書を楽しむといっても、

人によっては千差万別、

真もあれば俗もある。

学問だって

真学もあれば俗学もある。

人間も真人、俗人いろいろである。

心がけと人となりによらなければ、

これはもうピンからキリまで、

まるで正反対にまでなるのであります。

このごろは

そういうことを

感ぜしめる

いろいろの材料がありすぎる。

一国の宰相などは、

最も卑俗な代表であると考えさせる

いい材料であります。

このごろの人は、

皆それぞれ学校を出て、

大学を出て、

おそらくそれ相当の優等生だろう。

しかし、

私は時折感ずるのである。

このごろは文章や詩になる会話、問答がない。

国会なんかへ行って、

あるいはその報道を聞いておっても、

宰相・大臣をはじめとして、

名士はうようよいるけれど、

この人はできておるな、

この人の教養は豊かだな、高いな、

おもしろいなと思うような

思想・言論・応答、

そういうものがほとんどない。

皆いかにも通俗ないしは低俗だ。

良きにつけ悪しきにつけ、

歴史の記録に留めておくような

発言、言論が実に乏しい。

「なんとか言え」という俗語があるが、

このごろの人間は

なんとも言わん。

本当に

屠所に曳かれていく

羊のようです。

皆、大学を出て優等生だったのだろうけれど、

本当の学問をしておらん。

本当の学問というのは、

人間・人格・教養・悟道というような学問

であるけれども、

そんな学問は何もしていない。

ただ

学校で

教科書・参考書を読んで、

試験を受けて、

与えられた一時間か二時間に

いくつかの問題に答えを書けばそれでいい。

講義を聴いたり、

参考書を読んで

暗記でもすれば

それで間に合うというようなものは

真の読書でもなければ学問でもない。

もっとも、

職業人として

職業的知識・技術くらいは皆持っておる。

持たなければ出世もできん。

けれども

人間としての教養、

人間としての悟道、

そういうものが何もないから、

問題が起こって、

思いがけない場に立たされたときに、

言葉・思想・見識・信念といったものが、

言葉になって出てこない。

誠につまらない。

いわゆる通俗・俗人である。

新聞なんか読んでおってもつまらない。

その意味でも

「なんとか言え」とはいい言葉であります。

それなのに、

出てくる言葉は

相も変わらず

繰り言・泣き言である。

いずれ

それ相当の人物だから、

大向こうを唸らせるほどでなくても、

心ある者をして

頷かせるような言葉がありそうなものだと

時々注意するが、何も出てこない。

新聞を読むのも嫌になります。

こんなことは言いたくないけれど、

田中角栄さんなどは、

鄙夫(ひふ)より起(た)って、

とにもかくにも

大日本国の宰相になったんだから、

何か一言あってしかるべきだ。

さすが

田中は

なかなかできておる

と思わせるような

挨拶があっていいのに、

ただベラベラ喋っているだけで、

思想も見識も信念も

言葉になって表現されていません。

挨拶ということの本当の意味を知る人、

いや文字を書ける人も

このごろは少ない。

挨拶とは

人に

「うん、なるほど、さすが」

と思わせる発言・表現、

対象に迫るものを、きちんと説くことを言うのだ。

昔の人は「ご挨拶痛みいります」なんていうが、

実によく文字をこなした言葉です。

つまり

痛いところへ

ピシッと行くことだ。

それで痛みいります。

挨拶もロクにできんということは、

問題に

パチッと当てはまらんことを言う。

矢で言うなら逸れ矢、的を射ない。

何やら訳のわからんことをボソボソ言うとる。

昔の人は言いました。

「こいつはいい歳をして挨拶もろくにできません」と。

あれは名言です。

名言というより痛言だ。

本当に

それ相当の人物であるはずなのに、

ロクな挨拶ができない。

議会なんかの問答でも、

くだらんことを質問して、

それへまた、

おもしろくなさそうな顔してトボトボ出てきて、

二言三言何やら言うて、

お辞儀してすくんでおる。

あんな議会の問答なら、ないほうがいい。

情けないことです。

そこへいくと、

さすがに明治時代の議会は、

なかなかどうして、

それ相当の人物が熱論を戦わせて、

堂々たる挨拶を交わしておる。

それがもう昭和になってなくなりました。

平々凡々というのか低俗というのか、

どうかすると

俗悪になって

実につまらない。

議会なぞ行ってみる気もしない。

演説なんか聞く気もしない。

新聞も一瞥したらたいていわかるような、

読む気もせんような記事が多い。

全国に

大学だけでも

八百を超すほどの学校ができて、

まるで

日本を

学校で埋めるような

教育国になっているのに、

日本人の教養堕落せりと言うべきであります。

学問なんていうのは、

何も書物をたくさん読んでいることではない。

本当に考えて書を読む。

書を読んで考える。

そこに

本当の学問がある。

われわれは

本当の学問をしなければいかん。

片々たる知識、イデオロギーなんて

必要とするのではない。

あの人はできておるなとか、

あの一言は味があるとか、

そういうふうにならなければいかん。

今の日本は

そういう点において、

非常に堕落したと言わざるを得ないのであります。

残念だけど、

さすがに

明治時代の人物は、

政治家でも軍人でも財界人でも、

今にして思えば、なかなか人ができておった。

話をしておもしろかった。

今日、

会って話しをしようなんて思う人間は、

名士の中で本当に少なくなった。

私は

幸いにして、

明治人・大正人・昭和人、

三代の

代表的な人間を

よく知っておる。

このごろは

人がいなくなったと、

体験からしみじみ考える。

それだけに、

『酔古堂剣掃』などを読むと、

身に沁みておもしろい。

あるいは楽しい。

−−−引用はここまでです−−−